◆セミナー講演 個性派揃いのCatalyst講師陣が、価値あるセミナーを実践いたします。
⾧年にわたり築き上げてきた幅広い人的ネットワークを礎に、有効なbusiness matchingを推進するcatalyst。
その知的インフラを存分に活かし、多様な人材を起用するセミナーをご提案しています。
個性あふれる講師たちが、それぞれの分野で蓄えた豊かな知識と独特な感性で作りあげる世界観は、耳を傾ける方々に新たな発見と深い感銘をお届けすることでしょう。
ジャンルも、企業経営、人材育成、ビジネス、スポーツ、文化、歴史(近代史)、語学、健康、食品、シニアライフほか、多岐にわたります。
目的に合わせたカスタマイズにも柔軟に対応できますので、
各種イベント、研修・勉強会、市民講座、会員サービス等にぜひご活用ください。
具体的セミナーの例はこちらです。
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◆LECTURER1 上野 俊夫
日本初のカップみそ汁を商品化、時代の荒波を乗り越えながら波乱万丈の経営者人生を送ってきた上野食品・元社⾧。育て上げた自社を子息に承継せず、M&Aで売却。その後、立教大学の大学院に入学し75歳でMBAを取得する。
豊富な経験に基づいた経営、事業承継、商品開発、シニアライフなどにまつわる金言を、今を生きる人々へ贈る。
日本初のカップみそ汁を商品化、時代の荒波を乗り越えながら波乱万丈の経営者人生を送ってきた上野食品・元社⾧。育て上げた自社を子息に承継せず、M&Aで売却。その後、立教大学の大学院に入学し75歳でMBAを取得する。
豊富な経験に基づいた経営、事業承継、商品開発、シニアライフなどにまつわる金言を、今を生きる人々へ贈る。
◆LECTURER2 花野 巧
ドン底にあったチームを日本一にまで高め、プロ野球選手も多数輩出した、日本生命野球部・元監督。
最下位グループだった支社を半年でトップグループに引き上げる等、営業手腕も高い。
スポーツ、ビジネスにおける組織論や人材育成・活用術はもちろん、有名プロ野球選手の裏話まで守備範囲は広い。
ドン底にあったチームを日本一にまで高め、プロ野球選手も多数輩出した、日本生命野球部・元監督。
最下位グループだった支社を半年でトップグループに引き上げる等、営業手腕も高い。
スポーツ、ビジネスにおける組織論や人材育成・活用術はもちろん、有名プロ野球選手の裏話まで守備範囲は広い。
◆LECTURER3 山﨑 こずえ
一流企業を退社し中国へ渡航、わずか4か月で中国語をマスターし、半年後には上海で日本語学校の教師となる。日本に帰国後、中国語スクールを開校し、国内初の子ども向け中国語音楽教材の企画・制作等を手掛ける。
中国にフォーカスした人材やビジネスの話題、中国文化を面白く楽しく紹介する異文化交流のスペシャリスト。
一流企業を退社し中国へ渡航、わずか4か月で中国語をマスターし、半年後には上海で日本語学校の教師となる。日本に帰国後、中国語スクールを開校し、国内初の子ども向け中国語音楽教材の企画・制作等を手掛ける。
中国にフォーカスした人材やビジネスの話題、中国文化を面白く楽しく紹介する異文化交流のスペシャリスト。
上野 俊夫(うえのとしお)
■プロフィール
22歳の時、父親の急死により味噌・醤油問屋だった上野食品株式会社(以下、上野食品)を受け継ぐ。その後、同社は食品メーカーとなり、日本初のカップみそ汁や固形燃料で炊くコンロ付き釜めしセットを独自開発。時代の荒波に揉まれ、また自身も大病と闘いながら、創意工夫により七転び八起きの奮闘劇を繰り広げた。
70歳を過ぎるまで経営者として手腕を発揮し、会社をM&Aで売却後は立教大学の大学院に入学し、75歳でMBAを取得。現在、講演や執筆活動などを意欲的に展開中。
■略歴
〇MBA(経営管理学修士)
〇インターシッププログラム資格(日本文化を外国に普及する民間大使)
上野 俊夫(うえのとしお)
■プロフィール
22歳の時、父親の急死により味噌・醤油問屋だった上野食品株式会社(以下、上野食品)を受け継ぐ。その後、同社は食品メーカーとなり、日本初のカップみそ汁や固形燃料で炊くコンロ付き釜めしセットを独自開発。時代の荒波に揉まれ、また自身も大病と闘いながら、創意工夫により七転び八起きの奮闘劇を繰り広げた。
70歳を過ぎるまで経営者として手腕を発揮し、会社をM&Aで売却後は立教大学の大学院に入学し、75歳でMBAを取得。現在、講演や執筆活動などを意欲的に展開中。
■略歴
- 1942年 東京都生まれ
- 1965年3月 早稲田大学第一商学部卒業
- 同 年 上野食品の社⾧に就任1977年6月 日本で初めてカップみそ汁を開発
- 同 年 放送業界初の社⾧自身がコマーシャルに出演(ニッポン放送)
- 1994年9月 コンロ付き釜めしセット(固形燃料使用)を開発
- 2012年1月 M&Aで上野食品を東証一部上場のG-7ホールディングスに売却、
- 2016年4月 立教大学大学院ビジネスデザイン研究科に入学
- 2018年3月 同研究科卒業(MBA取得)
〇MBA(経営管理学修士)
〇インターシッププログラム資格(日本文化を外国に普及する民間大使)
【EPISODE】
■社⾧になったとたん借金地獄に
早稲田大学第一商学部卒業式の10日前、成績表をもらったのとほぼ同じ時刻に父親(当時48歳)が事故死。突然家業を継ぐことになったが、ビル新築の2年4か月後で多額の借金を背負う(現在の貨幣価値にして1億2千万円以上)。その返済に⾧らく苦しんだ。
■スパイスの効いたアイデア商品を次々と開発
1977年、日本初のカップみそ汁を開発。大ヒット商品となり食品業界の注目を浴びる。1989年までトップシェアを維持したが、その後、大手メーカーが次々と参入し売り上げは激減。1994年に起死回生を狙い、固形燃料を使用したコンロ付き釜めしセットを開発し、テレビショッピングをはじめ全国の大手通販会社を席巻して飛躍的に売り上げを伸ばす。続いて電子レンジ用釜めしも開発し、20年以上にわたり業績向上を維持してきた。
■騙しや裏切り、理不尽なクレームが頻発
倒産のうわさを立てられ、仕入先が取引をストップして商品を引き取りに来る騒ぎが勃発。一番取引額が大きかった仕入先の社⾧に騙されて手形500万円を振り出してしまい、未払金と相殺され、その後商品を送って来なかった。さらにナンバー2の番頭もその半年後に突然退職。その一方で、商品クレームは年間10回以上あり、ヤクザに脅されて社員3人が監禁されたこともあった。
■貸し倒れは日常茶飯事で、強烈な貸し剥がしも
社⾧に就任した翌年に大口取引先が倒産して500万円の貸し倒れが発生。大きかったのは年に2回、同じクライアントで合計4200万円貸し倒れが出て、2回目の2200万円は未回収に終わる。それらを含め年に平均2回以上貸し倒れがあった。また、新社屋と社宅を設立するために8億円を借りたが、バブル経済が崩壊すると金融機関は手のひらを返し、多額の返済を迫り、金利を高くして貸し剥がしを行う。まるで罪人のような扱いをされる。
■人生是れ、病魔との闘い
45歳の頃、すい臓がんの疑いありと診断され、その後も尿管結石、高脂血症、帯状疱疹、気管支炎、腎臓癌、水腎症と数々の病魔に襲われた。会社を引退した72歳の時には腎臓癌で摘出手術を行ったが、失敗して尿が腎臓の尿管から体内に漏れて腹膜炎になり後遺症で3年間苦しんだ。
■ボランティア活動にも全力投球
上野食品の社⾧時代から、様々なボランティア活動を積極的に行っている。
チャリティゴルフ、バザー、オークションなどで寄付金を集め全額を寄付。
また、2011年の東日本大震災で被害を受けた岩手県大船渡市にも多大な支援を行ってきた。
主な活動は下記の通り。
〇上野食品では、地域貢献として近隣の公園の掃除を実施。社⾧はトイレ担当。いくら頑張っても翌日には汚れている便器を真摯に磨き続けた。
〇カンボジアに他の有志の方々と共同で小学校を数校建設。
〇大田区にある孤児院とベトナムの孤児を助ける村上亮子女史に毎年寄付を行う。
〇東日本大震災の発生直後、ワゴン車に食料品を山ほど積み込み被災地に駆けつけた。食品会社の使命と考え、持ち運んだ食料品を被災者に無償で配布。
さらに被災地の惨状を目の当たりにし、大船渡市に3年間にわたりボランティア活動を行うことを市⾧に約束して実行。
〇震災で亡くなった方々の鎮魂のため、大船渡港の近くにある公園に英語版の石碑「愛の鎮魂の碑」を建立し寄付。
早稲田大学第一商学部卒業式の10日前、成績表をもらったのとほぼ同じ時刻に父親(当時48歳)が事故死。突然家業を継ぐことになったが、ビル新築の2年4か月後で多額の借金を背負う(現在の貨幣価値にして1億2千万円以上)。その返済に⾧らく苦しんだ。
■スパイスの効いたアイデア商品を次々と開発
1977年、日本初のカップみそ汁を開発。大ヒット商品となり食品業界の注目を浴びる。1989年までトップシェアを維持したが、その後、大手メーカーが次々と参入し売り上げは激減。1994年に起死回生を狙い、固形燃料を使用したコンロ付き釜めしセットを開発し、テレビショッピングをはじめ全国の大手通販会社を席巻して飛躍的に売り上げを伸ばす。続いて電子レンジ用釜めしも開発し、20年以上にわたり業績向上を維持してきた。
■騙しや裏切り、理不尽なクレームが頻発
倒産のうわさを立てられ、仕入先が取引をストップして商品を引き取りに来る騒ぎが勃発。一番取引額が大きかった仕入先の社⾧に騙されて手形500万円を振り出してしまい、未払金と相殺され、その後商品を送って来なかった。さらにナンバー2の番頭もその半年後に突然退職。その一方で、商品クレームは年間10回以上あり、ヤクザに脅されて社員3人が監禁されたこともあった。
■貸し倒れは日常茶飯事で、強烈な貸し剥がしも
社⾧に就任した翌年に大口取引先が倒産して500万円の貸し倒れが発生。大きかったのは年に2回、同じクライアントで合計4200万円貸し倒れが出て、2回目の2200万円は未回収に終わる。それらを含め年に平均2回以上貸し倒れがあった。また、新社屋と社宅を設立するために8億円を借りたが、バブル経済が崩壊すると金融機関は手のひらを返し、多額の返済を迫り、金利を高くして貸し剥がしを行う。まるで罪人のような扱いをされる。
■人生是れ、病魔との闘い
45歳の頃、すい臓がんの疑いありと診断され、その後も尿管結石、高脂血症、帯状疱疹、気管支炎、腎臓癌、水腎症と数々の病魔に襲われた。会社を引退した72歳の時には腎臓癌で摘出手術を行ったが、失敗して尿が腎臓の尿管から体内に漏れて腹膜炎になり後遺症で3年間苦しんだ。
■ボランティア活動にも全力投球
上野食品の社⾧時代から、様々なボランティア活動を積極的に行っている。
チャリティゴルフ、バザー、オークションなどで寄付金を集め全額を寄付。
また、2011年の東日本大震災で被害を受けた岩手県大船渡市にも多大な支援を行ってきた。
主な活動は下記の通り。
〇上野食品では、地域貢献として近隣の公園の掃除を実施。社⾧はトイレ担当。いくら頑張っても翌日には汚れている便器を真摯に磨き続けた。
〇カンボジアに他の有志の方々と共同で小学校を数校建設。
〇大田区にある孤児院とベトナムの孤児を助ける村上亮子女史に毎年寄付を行う。
〇東日本大震災の発生直後、ワゴン車に食料品を山ほど積み込み被災地に駆けつけた。食品会社の使命と考え、持ち運んだ食料品を被災者に無償で配布。
さらに被災地の惨状を目の当たりにし、大船渡市に3年間にわたりボランティア活動を行うことを市⾧に約束して実行。
〇震災で亡くなった方々の鎮魂のため、大船渡港の近くにある公園に英語版の石碑「愛の鎮魂の碑」を建立し寄付。
花野 巧(はなのたくみ)
■プロフィール
徳島県立海南高等学校野球部で尾崎建夫(プロゴルファー)、同志社大学野球部では田尾安志(元中日ドラゴンズ)とクリーンナップを打ち、関西学生野球六大学リーグで首位打者に輝いたこともある強打者。大学卒業後、日本生命保険相互会社(以下、日本生命)に入社し、同社野球部で活躍。その後、ヘッドコーチに就任。都市対抗野球で選手・ヘッドコーチとして2回優勝、日本選手権でヘッドコーチとして1回優勝。2010年に監督に就任しグランドに復帰。勇退した翌年の2015年、自身が育てた陣容でチームは都市対抗野球、日本選手権をダブル優勝し、文句なしの日本一に輝いた。 仕事面では、営業部⾧、松本支社⾧、東日本代理店部⾧などを歴任。
同社退職後もアソシア少額短期保険株式会社、株式会社新商ハウジングの代表取締役社⾧等として活躍。
■略歴
■プロフィール
徳島県立海南高等学校野球部で尾崎建夫(プロゴルファー)、同志社大学野球部では田尾安志(元中日ドラゴンズ)とクリーンナップを打ち、関西学生野球六大学リーグで首位打者に輝いたこともある強打者。大学卒業後、日本生命保険相互会社(以下、日本生命)に入社し、同社野球部で活躍。その後、ヘッドコーチに就任。都市対抗野球で選手・ヘッドコーチとして2回優勝、日本選手権でヘッドコーチとして1回優勝。2010年に監督に就任しグランドに復帰。勇退した翌年の2015年、自身が育てた陣容でチームは都市対抗野球、日本選手権をダブル優勝し、文句なしの日本一に輝いた。 仕事面では、営業部⾧、松本支社⾧、東日本代理店部⾧などを歴任。
同社退職後もアソシア少額短期保険株式会社、株式会社新商ハウジングの代表取締役社⾧等として活躍。
■略歴
- 1953年 徳島県生まれ
- 1976年3月 同志社大学商学部卒業
- 同 年 日本生命保険相互会社入社
- 2014年3月 日本生命保険相互会社退職
- 2014年4月 アソシア少額短期保険株式会社 代表取締役社⾧就任
- 2017年5月 セムカ株式会社 取締役副社⾧就任
- 2018年4月 株式会社新商ハウジング 代表取締役社⾧就任
【EPISODE】
■監督・ヘッドコーチとして16名のプロ野球選手を育成
日本生命野球部の監督を務めていた2013年、プロ野球のドラフト会議で、柿田裕太(投手、横浜DeNAベイスターズ・1位)、小林誠司(捕手、読売ジャイアンツ・1位)、吉原正平(投手、千葉ロッテマリーンズ・4位)、井上晴哉(内野手、千葉ロッテマリーンズ・5位)の4名の所属選手が指名を受け入団。ヘッドコーチ時代も合わせると、16名のプロ野球選手を輩出した実績を持つ。
■大谷翔平、菊池雄星にピッチングやバッティングを指南
花巻東高校野球部の佐々木洋監督とは懇意で、同校まで指導に出向いたり、日本生命野球部で選手を預かり別指導を行ったりしたことも。現在メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手や菊池雄星選手にも、プロ野球で通用するためのピッチングやバッティングの技術を直接指導した。その他、現ヤクルトの山田哲人選手にもバッティングを指南。
■ドン底の支社を半年でトップレベルのチームに
松本支社⾧時代、数百人の営業部隊を束ね、全国125支社の中で営業成績が120位だった同支社を、就任からわずか半年で28位まで引き上げた実績を持つ。日本生命野球部についても、低迷していたチームを立て直すよう社⾧から要請を受けて監督に就任。都市対抗野球、日本選手権をダブル優勝するレベルまでに育てあげる。ビジネスにおいても野球においても一流の「立て直し屋」である。
■野球選手にパソコンの活用法や話術を叩き込む
「野球選手である前に社会人である」という認識が最低限必要と考え、選手がしっかり挨拶し、感謝の気持ちを持ち、一般常識を身に付けることに取り組んだ。特に社会人野球の場合、プレーヤーとしての現役を退いた後、活躍の場はビジネスに移る。そこで、選手をパソコン教室、話し方教室などに通わせ、また練習前のミーティングでは時事に関するショートスピーチを全員の前で行わせた。
日本生命野球部の監督を務めていた2013年、プロ野球のドラフト会議で、柿田裕太(投手、横浜DeNAベイスターズ・1位)、小林誠司(捕手、読売ジャイアンツ・1位)、吉原正平(投手、千葉ロッテマリーンズ・4位)、井上晴哉(内野手、千葉ロッテマリーンズ・5位)の4名の所属選手が指名を受け入団。ヘッドコーチ時代も合わせると、16名のプロ野球選手を輩出した実績を持つ。
■大谷翔平、菊池雄星にピッチングやバッティングを指南
花巻東高校野球部の佐々木洋監督とは懇意で、同校まで指導に出向いたり、日本生命野球部で選手を預かり別指導を行ったりしたことも。現在メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手や菊池雄星選手にも、プロ野球で通用するためのピッチングやバッティングの技術を直接指導した。その他、現ヤクルトの山田哲人選手にもバッティングを指南。
■ドン底の支社を半年でトップレベルのチームに
松本支社⾧時代、数百人の営業部隊を束ね、全国125支社の中で営業成績が120位だった同支社を、就任からわずか半年で28位まで引き上げた実績を持つ。日本生命野球部についても、低迷していたチームを立て直すよう社⾧から要請を受けて監督に就任。都市対抗野球、日本選手権をダブル優勝するレベルまでに育てあげる。ビジネスにおいても野球においても一流の「立て直し屋」である。
■野球選手にパソコンの活用法や話術を叩き込む
「野球選手である前に社会人である」という認識が最低限必要と考え、選手がしっかり挨拶し、感謝の気持ちを持ち、一般常識を身に付けることに取り組んだ。特に社会人野球の場合、プレーヤーとしての現役を退いた後、活躍の場はビジネスに移る。そこで、選手をパソコン教室、話し方教室などに通わせ、また練習前のミーティングでは時事に関するショートスピーチを全員の前で行わせた。
山﨑 こずえ(やまざきこずえ)
■プロフィール
一橋大学卒業後、日本生命保険相互会社(以下、日本生命)に入社も5年で退社。中国へ語学留学し、半年後に上海で日本語学校の教師となる。毎回教室から人が溢れるほどの評判ぶりで「伝説の教師」と呼ばれる。その後、同校に通っていた 7 歳年下の中国人学生と結婚し、日本に帰国。現在、語学指導、翻訳、メディアへのコンテンツ提供、執筆、セミナー・講演、語学教材や番組の制作、語学教室の運営等を行う。ジュエリンズ株式会社代表取締役。中国語/児童英語/日本語教師、学校法人横濱中華学院非常勤講師。
主な著書等に、「笑って中国語マスター ハオ中」(中経出版)、「貴女を輝かせるキャリアデザイン」(共著、中央大学出版)、「中国語でうたおうきらきら星」(ジュエリンズ)、またポッドキャスト番組の中国語シリーズも手がける。
■略歴
■資格
〇日本語教師 〇小学校英語指導者 〇英国BTECチャイルドマインダー
■プロフィール
一橋大学卒業後、日本生命保険相互会社(以下、日本生命)に入社も5年で退社。中国へ語学留学し、半年後に上海で日本語学校の教師となる。毎回教室から人が溢れるほどの評判ぶりで「伝説の教師」と呼ばれる。その後、同校に通っていた 7 歳年下の中国人学生と結婚し、日本に帰国。現在、語学指導、翻訳、メディアへのコンテンツ提供、執筆、セミナー・講演、語学教材や番組の制作、語学教室の運営等を行う。ジュエリンズ株式会社代表取締役。中国語/児童英語/日本語教師、学校法人横濱中華学院非常勤講師。
主な著書等に、「笑って中国語マスター ハオ中」(中経出版)、「貴女を輝かせるキャリアデザイン」(共著、中央大学出版)、「中国語でうたおうきらきら星」(ジュエリンズ)、またポッドキャスト番組の中国語シリーズも手がける。
■略歴
- 1971年 神奈川県横浜市生まれ
- 1995年3月 一橋大学商学部卒業
- 同 年 日本生命保険相互会社入社 支社・本部勤務
- 2000年 日本生命保険相互会社退職 中国語学留学。上海にて日本語教師となる
- 2003年 帰国、商社勤務
- 2005年 ジェリンズ株式会社設立(中国語スクール開校)
- 2010年 日本で初めて子どものための中国語音楽教材を企画・制作
- 2012年 横浜にて子ども英語・中国語教室開校
■資格
〇日本語教師 〇小学校英語指導者 〇英国BTECチャイルドマインダー
【EPISODE】
■一流企業を辞めてアテもなく中国へ…人生の冒険家
大学卒業後、日本生命に入社したが、「一生楽しくやっていける仕事は何か」と考え、5年で退社。「語学が好き」「今から英語では食べていけない」「中国ならチャンスあり」と思い、28歳にして中国へ語学留学。現地に何のコネクションもなく、中国語を勉強したこともなかったが、思い立ったが吉日、人生の冒険に出発した。
■ 中国上陸からわずか4か月で中国語をマスター
少しでも早く中国語をマスターするために、あえて日本人が少ない学校を選び、日本人との接触を極力避ける。外出の際は辞書を持ち歩き、街で会う人会う人に時刻を尋ねるふりをして声を掛け、タクシーに乗れば助手席に座り運転手と積極的に話した。すると、中国上陸から約4か月で、突然かなりのことが聞き取れ話せるようになる。語学の不思議さを実感。
■上海の日本語学校で「行列ができる人気授業」の教師に
中国に留学してわずか半年ほどで、上海にある日本語学校の教師となる。現地の生徒に中国語で説明しなければならないため、さらに猛勉強。そのおかげで語学力は飛躍的に伸びた。自身の学生時代、授業が面白くなくて真面目に聞いていなかった経験から、「楽しい授業」を行うよう肝に命じた。そのおかげで、毎回教室に入りきれないくらい生徒が押し寄せる人気授業&教師となった。
■中国人男性と結婚し、新たな発見ぞくぞく
留学した当初、マナーの悪い中国人が大嫌いで、「中国人男性と付き合う」などということはまったく頭になかった。ところが、不覚にも生徒の一人と恋に落ち結婚。一緒に暮らしてみると、実は中国人男性は親孝行で、妻や家族を大切にし、仕事の後はまっすぐ帰宅し、せっせと料理を作り、人懐っこくて情に厚く、純粋でおしゃべりや議論が大好き…などなどたくさんの魅力を発見。
■すでに数多くのセミナーに登壇し好評を博する
帰国後は、日本人の中国人に対する誤解や先入観を取り除きたく、夫とのエピソードを講演やセミナーで伝えてきた。聴講者の主な感想は、とても面白かった(笑った)/中国人の見方が変わった/非常に参考になった/もっと早く講演を聴いていれば良かった/誤解が解けた等。さらに自己の経験をベースとした語学、漢方、ジェンダー教育、女性のキャリアデザインなど、幅広いテーマでの講演を行い、高い評価と支持を得ている。その一方で、中国語・英語の語学教室運営、語学教材や番組の制作などを意欲的に行っている。
大学卒業後、日本生命に入社したが、「一生楽しくやっていける仕事は何か」と考え、5年で退社。「語学が好き」「今から英語では食べていけない」「中国ならチャンスあり」と思い、28歳にして中国へ語学留学。現地に何のコネクションもなく、中国語を勉強したこともなかったが、思い立ったが吉日、人生の冒険に出発した。
■ 中国上陸からわずか4か月で中国語をマスター
少しでも早く中国語をマスターするために、あえて日本人が少ない学校を選び、日本人との接触を極力避ける。外出の際は辞書を持ち歩き、街で会う人会う人に時刻を尋ねるふりをして声を掛け、タクシーに乗れば助手席に座り運転手と積極的に話した。すると、中国上陸から約4か月で、突然かなりのことが聞き取れ話せるようになる。語学の不思議さを実感。
■上海の日本語学校で「行列ができる人気授業」の教師に
中国に留学してわずか半年ほどで、上海にある日本語学校の教師となる。現地の生徒に中国語で説明しなければならないため、さらに猛勉強。そのおかげで語学力は飛躍的に伸びた。自身の学生時代、授業が面白くなくて真面目に聞いていなかった経験から、「楽しい授業」を行うよう肝に命じた。そのおかげで、毎回教室に入りきれないくらい生徒が押し寄せる人気授業&教師となった。
■中国人男性と結婚し、新たな発見ぞくぞく
留学した当初、マナーの悪い中国人が大嫌いで、「中国人男性と付き合う」などということはまったく頭になかった。ところが、不覚にも生徒の一人と恋に落ち結婚。一緒に暮らしてみると、実は中国人男性は親孝行で、妻や家族を大切にし、仕事の後はまっすぐ帰宅し、せっせと料理を作り、人懐っこくて情に厚く、純粋でおしゃべりや議論が大好き…などなどたくさんの魅力を発見。
■すでに数多くのセミナーに登壇し好評を博する
帰国後は、日本人の中国人に対する誤解や先入観を取り除きたく、夫とのエピソードを講演やセミナーで伝えてきた。聴講者の主な感想は、とても面白かった(笑った)/中国人の見方が変わった/非常に参考になった/もっと早く講演を聴いていれば良かった/誤解が解けた等。さらに自己の経験をベースとした語学、漢方、ジェンダー教育、女性のキャリアデザインなど、幅広いテーマでの講演を行い、高い評価と支持を得ている。その一方で、中国語・英語の語学教室運営、語学教材や番組の制作などを意欲的に行っている。